「裾に、」
　一言呟いて、本田は目を細めた。
　この国の空気は、場所によっては酷く息苦しい。
「何だ」
　一歩前を歩くアーサーが、速度を緩めることなく短く問う。この地でここまで大きくなった彼にとって、この空気を息苦しいなど思った事はないのだろう。
　――しかし、塵芥に惑う位では
　この先の闇など斬ることも出来ぬ、と本田は首を横に振った。
「土が付きます、斯様な服装」
「…ああ」
　ドレスを指して言っているのだろう、と気付いたらしい。
　石畳の整備されている所ならばいざ知らず、軍需による急ごしらえの道を、それでも女性は長いスカートで歩いている。
「非合理的だと思うかもしれんな」
　ハッ、と小さく笑うような声が聞こえた。表情は見えず、横顔の輪郭を彩る睫毛が少しだけ揺れたのがただ印象に残る。
「いえ、日常生活を全うする為には、それも必要でしょう」
「…そうか」
「本土でも、職人も婦人も芸者も、皆それぞれに」
　そう、日常生活を送るということは、余りに非日常ではいけない。少しずつ、戦争をしているということはどういうことなのか、敵を倒す為に民はどうあるべきなのか、日々の暮らしの中に少しずつ染み込ませていけばいい。そうでなければ纏まるものも纏まらない。
　――まだ
　国民の総力全てを、戦に斗することなどできない。その時期ではない。それは、本田の心が何より感じていた。

「ならばなぜ」

「貴方らしからぬ」

　ぴた、とアーサーの足が止まる。
　革靴の踵がガリ、とジャリをにじる音がしたが、馬車が通りすぎる音でそれは意識から抜けて行く。
「俺に、どんな幻想を抱いているか知らんが」
　向き合い、距離を近づけられる。顔は、まだ真正面を見てきやしないが。
「…お前の所と同様、座り方の皺一つ気にするほど、高級な人間ばかりじゃない」
　――でなければ、私と同盟すら結ばなかったとすら、言いたげな顔だ
　その横顔が余りにも予想範囲内の表情で、本田は思わず笑んだ。
「成程、似ていると仰りたい」
「そう思えるなら、お前は随分お気楽だ」
　アーサーはついに体全部で本田に向き合う。
「…今でも英帝、貴方はあのように紳士的な華やかな格好もするのでしょう」
　王も王妃ならばなおのこと、と言えば鼻を鳴らす。
「民衆の上に立つのならば、当然の繁栄の象徴…そして」
「……」
「その裾を、人知れず泥が掛からぬようにする為に、俺が苦心しているか」
「心中お察しするといえば、気に召すか」
「愚を言うな。俺の機嫌を取る時期はとっくに終わってんだろ」
　――おや
　口調が悪くなった、と首を傾げる。
「本音を言うのが苦手なもので」
「恐縮すんな…あぁそうだ」
「？」
　本田の頭の上から足元までをじっと見て、アーサーは笑う。

「お前が着るというなら、俺が裾を持ってやってもいいぞ」

「…従者の様な事を仰る」
「お付きの者でもいなけりゃ、戦争一つままならねえ」
「……それは」
　ぐ、と眉根を寄せる。列強とうたわれる大国に今後、必要あらば戦を仕掛けていくのだ。
　――今、南下政策ハ西ニアラズ
　東こそが近道であると、唆した者と目の前の男は違う。
　
「なってやるよ」

　そう言ったアーサーの顔は、酷く楽しそうに歪んでいた。
「お前が歩く大陸全て、緋色のカーペットを引いてやりたい位だ」
「……本当に気持ちいい位悪趣味だ」
　
　――私の血で、貴方の歩く土を固めようなど

　長い間孤独の中で大国と成り得た男だ、『自分より小さい島国』の息の根を止めようとすれば、その情報網でどうとでもするだろう。

　――しかし…

　――よもや真逆の事を私が思い始めているなど、貴方は知りもしない

　本田は、ただゆっくりと、頭を下げた。