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――『姫』としての1日は、夜が開ける前から始まる。
眠い目を擦るイワンに、メイド達は手際よく、まるで人形にするように淡々とドレスを身に付けさせ、それからやっとミルクティを持ってくる(そうしないとイワンは半分寝たままネグリジェにお茶を溢してしまう)。
「今日の天気は?」
「曇りでございます、お化粧は」
「公務は無いのでしょう、ならばこのままで」
「はい」
メイドは髪を解かし始める。イワンはあくびを噛み殺しながら、カップに口を付けた。その唇は赤く色づいていたが、ミルクティを嚥下する喉には少しの膨らみがあり、本来ならば柔らかな曲線を描くはずの胸は、矯正された服と布で形成されており、本来の肌は真っすぐ下に落ちている。
この城の姫…イワンの本当の姿を知るのは、このメイド達の他には父親と、執事と、あともう1人しかいなかった。
「…今日の、彼は?」
もう1人の様子を問えば、メイドは小さく息を飲んだ。その中に答えを見つけて、イワンは笑む。
「…そう。着替えを」
「……はい」
ついさっき整えられたばかりの綺麗なドレープを台無しにするかの様にぐっと握る。
「あれがいいな、白い絹の、王子様みたいなやつ」
――まるで、『彼』が着ていたような
そういう服装がいい、と言えば、メイドは黙って衣装部屋へ歩いて行った。
***『おひめさまのおうじさま』***
――思えば可哀想な男もいたものだ
と、イワンは自分を棚にあげながら長い螺旋階段を意気揚々と昇る。
上着の裾は女性用に可愛らしいフリルがついていたし、膝丈のパンツにだって繊細な刺繍とポンポンが付いていたが、普段のコルセットで締め上げるドレスよりはよっぽど動きやすかった。
――僕の正体を知ったばかりに、こんな所に閉じ込められて
それは偶然の出来事だった。
人払いをした湖水で1人水浴びをして、一時の自由を謳歌していた時、彼が通りがかった。
通りがかって、しまった。
彼が、イワンを姫だと思ったかどうか、今となっては知れない。
だが、肌を見られ、身体を見られたからには、ただで返すわけにはいかなかった。
門番もいない、重そうな鉄扉の前に立ち、イワンは傷ひとつない指で閂を掴む。
ぎぎ、と油のひかれていない扉を肩で押して入ると、ぶわ、と強い風が吹いた。
「…また、雨戸を開けて」
寒くないんですか、と問えば、鉄格子のはめられた窓の外を見ていた男は、ゆっくりとこちらを見た。それまで見つめていた空と同じ、青い瞳。
「戸を開けてくれたから風が入った。ありがとう」
ひたり、と石の上を歩く裸足から、頭のてっぺんまで見上げる。
「…ああ、言った通りになりましたね」
「ん?髭と髪のことかな。随分さっぱりしたよ」
そう言って数歩近づく彼の首には鎖がはめられていて、それは壁に繋がれていた。常人の力ではまず外す事はできないだろう。
「…キースさん」
イワンは、彼の名を呼んだ。
――キース・グッドマン
隣国の王位継承者である彼の事を、何か知らないかと従者が訪ねて来たのはつい昨日の事だ。
父親である国王が、国を探させてから返事を出すと言って早々に追い出したのを、天蓋の向こうで聞いたのを言うべきかどうか、つい下唇を噛む。
「…何だい、イワン」
「その名前で呼ばないで下さいと」
「君の真名だろう、呼ばせてくれ。…ああ、いけないよ」
そんな風に唇を噛んでは、等と優しく諌め手のひらを頬に差し伸べてくれるキースは、どこまでも王子然としている。
首に鎖を巻かれ、薄着のままで、こんな塔に幽閉されていても、その性質は変わらないのだ。
ぱし、とその手を払い、イワンはキースを睨みつけた。
「やめてください」
「…今日は一層凛々しいね。服装の所為だろうか」
ふ、と哀しげに笑うキースは、叩かれた手を撫でもせず、硬いベッドに腰を下ろした。
じゃらり、鎖が鳴る。
「…貴方が、もうじき気が狂うのではないかと思っていました」
「君と毎日のように話しているからかな、不思議と心は穏やかだ」
「いつ、殺されるかもわからないのに?」
「いつ、殺されてもいい位に」
じっとキースの目はイワンを見つめる。まるで、薄紫の瞳が揺れているのを指摘されている様な気がして、イワンは申し訳程度に置かれていた木の椅子にどかりと腰かけた。
「その格好、いいね」
「?」
「王子さまみたいで、とても君らしい」
かっと顔に血が上ったのが解る。嬉しいのか、侮辱されている怒りなのか、さっぱりわからない。
――本物の王子に言われたくない
「…お、女物なのに」
「君の体のラインが解ってとてもいい。初めて会った時の君を思い出すようで」
初めて逢った時。
湖にぱしゃりと自分以外の波紋が浮かび、魚かと思い振り返ったらそこにキースがいた。
その時馬から降りていたのが、彼が今こうしてつかまっている理由の一つだ。
――あの時見せた
ぼうっとした顔は、痩せた自分の体に対する呆れた目だったのではなかったか。
「……なおも侮辱しますか」
「肌を見てしまった事は謝罪する。責任は取ろう。だが、それは私の死をもってしか償われない?」
「…何が言いたいんです」
「例えば、私が君と婚姻を交わせば」
「!」
ガタン、とイワンは立ちあがった。がらがらと椅子が倒れてからなお転がる程の勢いに、キースは目を瞬かせた。
「イワン…?」
「…ついに気が触れたようですね、そんなに死に急ぎたいのならば、僕から父上にお願いします」
「何をかな」
「昨日、貴方を探しに従者が来ました。父上は国中を探させた事にして、居ないか、或いは湖で死んでいる所を報告するか悩んでいます」
「…なるほど?」
「僕が貴方が気が触れたと、父上に告げれば、父は喜んで貴方を湖に沈めますよ」
国王がキースを生かしている理由はただ一つ、イワンがキースを生かしておいてくれと頼んでいるからだった。
国王がなぜ王子であるイワンを姫として育て、かといって誰とも婚姻を結ばせようとしないのか、その理由はイワンにも定かに解らない。ただ、国王の従順な人形であれば良いのだとしか思っていなかった。国王は恐らく、イワンが力を持って国王に反逆する可能性を恐れている。それだけのことだ。
――僕はただ
自由になりたいだけなのだ。あの窮屈なコルセットから、朝のミルクティから。
…少しの沈黙の後、キースは口を開いた。
「…そこに、君を娶ることを条件として二国の友好を、そして君を自由にするという交渉は受け付けてもらえない?」
――なんで
なぜ、自分が望む事を、この王子は知っているのか。ただ日がな一日イワンのつまらない愚痴を聞かされ、本を読み聞かされ、あるいはただ二人ぼうっと塔の中に居ただけなのに。
「…この期に、及んで…まだ世迷い言を」
「…そうか、失礼。…君は王子様になりたいんだね」
「――っ!」
ならば確かに、私は邪魔で仕方ないだろうと困ったように笑うキースに、イワンは投げつける罵倒の言葉も見つからなかった。
「私と結婚すれば、確かに君は姫のままでしか居られない。ドレスの君もそれはそれは美しいし、その美しさは内側から来るものだと私は思っているから、姫だの王子だのはどうでもいいんだが…君が気にするならば」
「…なら?」
「私は大人しく殺されよう。君の手で殺されるのが、一番いいけれど」
――なんで
――どうして
本当は、イワンだって姫だの王子だのはどうでもいいのだ。
ただ、自分は姫のままではいられないし、姫としての自分を愛してくれる国王から、いずれ処分されるだろうということを何とは無く感じていた。
「…なんで…」
「君を愛してるから」
「……」
イワンの足元で、何かが崩れて行くような、そんな感覚が全身を襲った。
「私をその場で殺す事も出来ただろうに、私を生かし、ここに閉じ込め、日々の悩みを打ち明けてくれた。本当は素晴らしい心根を持っているはずなのに、君はどうしてか」
「やめ…」
「私をたまに憎むように見つめるね。君が持っていないものを私が持っているからかもしれない。私は男として生きる事を望まれているし、そう生きようと考えている。でも君は」
「止めて下さい、止めて」
「君は、その服に閉じ込められてる君自身を、どう生かしてあげたいのかきっと解らないんだろう。…そんなに、綺麗なのに」
じゃら、と鎖の音がする。顔を上げれば、至近距離にキースの顔があった。
――なんで、僕よりもずっと辛い顔をして僕を見るんだ
そんなに自由になりたいのだろうか。そんなにイワンが可哀想に見えるのだろうか。
「君を、あの時のような無邪気な君を、私は何よりも愛してるんだ」
だから、とキースはイワンを抱きしめる。
「逃げたいだけなんじゃ」
「君と二人で逃げられるならそれもいい。正直、自国の王位継承争いには飽きてきていた」
「……でも、僕は貴方ほど丈夫じゃないし」
きっと足手まといになる。こんなに迷惑を掛けているのに、こんなに好き勝手閉じ込めてしまったのに。
「私が抱えて行けばいい。頑丈さだけが取り柄なんだ。君の肌を傷つけさせたくもないしね」
「僕のことなんて」
「そんな君が好きなんだ、だから、イワン、約束しよう」
キースの手が、イワンの手を取る。ちゅ、と唇が甲に触れた。
「君の手で、私を自由にさせてくれたら、私の手で、君を自由にしよう」
「……そんな」
自由になんて、欲しいものが手に入らないままの自由なんて意味は無いのだとイワンはその時初めて悟った。
――本当は
貴方に抱きとめられるのならば、そのままでいいと
そんな女々しい事を思ってしまったと告げられないまま、イワンは黙ってただ頷いた。
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